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報告:3/15 避難者がつくる公聴会 [日頃の活動]

【報告:3/15 避難者がつくる公聴会】

 3月15日(金)、避難者がつくる公聴会in姫路は50人の参加で成功しました。

 出席を求めた復興庁・環境省は不参加。しかし4人の避難者が自らの要求を訴え、傍聴した市民、姫路の弁護士会、市会議員、国会議員秘書、新聞記者らに共感が広がりました。

 発言した避難者の要求は多くが共通するものでした。

・原発事故の真実を報道してください。
・甲状腺検査、尿検査など放射能健診を、少なくとも半年に1回。
・避難先の住宅提供。
・住宅ローンの免除。
・夫が避難先に来るための交通費。
・食品の安全基準を大幅に下げること。
・子どもの疎開。
・ガレキを焼却しない。放射能を拡散させないこと。


(小平市から避難したAさん)
 水道水の汚染で、子どもの安全が最優先と思い、PTA役員も替わってもらって、姫路に避難した。姫路に来て「避難は大げさだ」と何人かから言われた。パソコンで放射能情報を調べると絶望的になったが、周囲との距離は開くばかり。メディアが「正しく怖がろう」などと言っているから。

 子どもにジンマシンが出て給食を弁当に代えた。一人弁当を食べる子どもの姿に涙が出たが、子どもは放射能のことをわかっていて『弁当がいい』といってくれる。安心して食べられる給食を望む。

 夫は単身者用住宅を借りて住んでいる。家具は捨てた。「あの頃は幸せだったね」と子どもが言う。夫の仕送りも6ヶ月途絶えている。

 避難して2年目でやっと避難者や理解ある人に出会えた。子どもの成長を見守るためにこれからの人生をと思う。


(郡山市から避難したBさん)
 原発事故直後に、3月13日の臨時便で伊丹空港に着いて、ようやく子どもを守れたと、ほっとして動悸もおさまったが、逃げ出した罪悪感は今も消えない。

 避難で家計は10万円以上の追加出費。夫が月に1回夜行バスで来る。その時は子どもが父親から離れない。せめて月2回、新幹線の交通費をと思う。

 郡山市では除染してその土を自宅の庭に埋める。それでようやく毎時0.25マイクロSv。市民は今まで2年間は1マイクロSvの中で暮らしていた。庭をコンクリートにした友人、九州の野菜を取り寄せ、休日には放射能の低いところに子どもを連れ出して遊ばせる友人もいる。福島では甲状腺検査も済んでいない。異常があっても再検査は2年後。子どもに疎開を。公務員の夫は事故当時、雨の中を出勤した。大人にも健診を。

 避難する、しないの決断を家庭に押しつけた国と東電に腹が立つ。生活補償をしなさい。

 原発事故は制御できない。子ども達に明るい未来を残してやりたい。原発があったら明るい未来はない。


(南相馬市から避難したCさん)
 3号機の爆発で子ども達を安全なところに避難させることを決めた。神奈川、静岡とホテル暮らしを続け、浜松市役所に行ったが、20キロ圏内でないので門前払い。一度福島に戻り、避難先を決めようとしていたら、避難区域が30キロ圏に広がって、自治体の態度が変わった。紙切れ一枚で避難者への対応が違うことに今も腹が立つ。家族には反対されたが子どもの健康が一番、避難先の三木市に行けば何とかなる、と。公園でのびのび遊ぶ子どもの姿を見て涙が出た。避難してよかった、これからが本番だと。

 兵庫県の避難者にも故郷に帰る人もいる。私も帰りたい、大切な人が残っているから。でも子ども達のことを考えると、こちらに残ろうと思う。


(東京から避難したDさん)
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  (神戸新聞より)
 3月14日に3号機が爆発して、最悪の事態になったと思った。家族会議でもすぐに避難を決断できずにいたが、妹が「チェルノブイリのタンポポのこと知ってる?」と。義弟は「フランス大使館員は避難を開始した。」子ども達の健康が最優先と判断して、避難を決心した。

 大阪でしばらくホテル暮らしだったが、高額なのでいつまでもいられない。妹家族海外へ。姉らは4月に関東へ、母は東京へ戻った。私は悩んだが、夫が「原発はどうなるかわからない。東京には戻るな。おまえの人生はおまえのもの、避難できたのは恵まれたこと。俺が大阪に行くかもしれないから、それまでがんばれ」と背中を押してくれた。

 ワンルームマンションを借りて、台所用品も無く、食事は安いコンビニ弁当などで済ましていたが、貯金はどんどん無くなって、これからどうなるかと不安。とにかく働こう。お金がないから履歴書に貼る写真4枚。4回の面接のうちに仕事を決めないと、と決心した。幸い2回目の面接でパートのお仕事が決まった。

 週2回、仕事している時は避難生活を忘れられた。でもそれ以外は私の存在は誰も知らない。自分が動かないといけない、勉強も始めた。

 夫が7月に避難してきた。仕事を探したが何社も断られ、仕事は選べないと慣れない派遣の肉体労働についてくれた。5時に家を出て帰宅は20時、シャツが真っ黒。あの事故さえなければ・・・・・・・・。

 避難者は自分で仕事も住宅の医者も確保しないといけない。国が避難者し支援してくれたらと思う。、国はなんで情報を開示しなかったのか?国と東電は何で平気でいられるのか? 国は避難者の思いを受け止めて、支援法に要求を取り入れてほしい。 
 
 希望する全ての人に健康診断を。
 住宅の無償提供を。雇用の斡旋と避難者用の就職先の拡大。
 避難者が家族と会うための交通費。
 各地で公聴会や、意見を聞く会を。 


(公聴会を主催した「原発事故を考える姫路市民の会」のSさん)
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 今年の3月11日、福島県双葉町から福島市に移住した人の記事で『原発のことは考えずに前を向いて生きたい。』彼らはどうなるのか?避難者と家族の健康はどうなるのか?これからが悲劇の本番。チェルノブイリの本を読めば、私にもわかる。

 「直ちに健康に影響はない」と政府・枝野は言った。原発4基を爆発させても直ちに影響はないと。体で証明してみろ。放射能プルームは3月15日に関東をおそった.国も東電も福島県も知っていた。『放射能が降るかもしれないから外に出ないように』とでも一言いえば、赤ちゃんまで被曝させることはなかった。

 今も汚染地から食品、製品、ガレキが拡散している。子どもの喉元にナイフを突きつけられた気持ち。

 教育委員会は『食材は国の基準以下だから大丈夫。』学校農園の肥料も『国の基準400Bq以下なので大丈夫。』府や市役所は『8000Bq以下なら大丈夫。』『避難者の受け入れは、国から要請が無いと出来ない。』全て国と東電の責任。「直ちに影響がない。国の基準以下だから大丈夫」なぜ私たちが国から命令されるのか?いつ行政が主権者になったのか?

 放射能汚染に復興などあり得ないのに、復興庁なんて名前はやめなさい。国は健康被害を認めなさい。生きる権利を保障しなさい。今もどう子育てすれば良いか悩む。でも希望を見たいから、運動を続けます。運動している時は希望を見られる。希望は自分の手で作り出すもの。

(私も、「どこでも誰でも健康診断」署名の意義について、発言しました。)
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 参加者からも、健康診断を始めた(加古川市民)。震災経験地でもっと避難者のお話会を広げたい、医療署名も広げたい(神戸市民)。紙面で皆さんの声を伝えることが使命であると思っている(地元紙の若い記者)、などの意見があがり、避難者の訴えが共感と運動を広げる力だと実感しました。


【復興庁が支援策を発表】

 被災者支援法を具体化する施策案が復興庁から発表されました。

 「原子力災害による被災者支援施策パッケージ 概要」

 → http://www.reconstruction.go.jp/topics/20130315_gaiyo.pdf

 「福島に帰ってきたら支援する」「福島に帰るための支援はする」と言う態度です。詳しくは後日。
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